青木 光弘 MITSUHIRO AOKI

徳島ニットファクトリー株式会社 / 代表取締役

フェニックスでのあなたの役割について教えてください。

フェニックスさんには、私の経営する徳島ニットファクトリーがお世話になっております。
私はもともと、現在の双日株式会社の前身、ニチメン株式会社におりました。35年と1ヶ月勤めたのですが、主には日本で最初の商社として布帛の生地の仕入れと卸を担当していました。私は性格的に負けず嫌いなものですから、なにかトップになれる商材を取り扱いたいと思い、フロッキーという植毛加工された素材を衣料用に使えないかと考えたのです。8社の工場に聞いて7社がダメだったのですが、岐阜のある会社が一緒に開発してくれることになり、3年ほどの年月をかけて独占素材として開発に成功しました。
次は製品を作りたいという思いが強くなり、1967年に中国へ出向き、トレンチコートを3万着オーダーしました。これを売り切ったことで自信がつき、91年には独立してシルクシャツなどの洋服を売るようになるのですが、これが時代とも合って2年で100万着くらい売れたのです。ところが、海外で作った服を持ち込み日本で売るという、いわば商社的な仕事をしていて、気付くと日本は洋服に関して実に96%も海外から輸入しているということになっていた。これでは日本がものを作れない国になってしまうと思い、2014年、75歳の時に先代の鴨居社長と出会い、縁と想いがあって徳島ニットファクトリーを経営することになりました。

仕事や会社において、これから挑戦したいこと、目指していることについて教えてください。

いま、日本は衣食住に関する輸入比率が50%を超えています。先進国と言われる国々の中で、このような状況にあるのは日本だけです。このままでは、日本は本当に自分たちの力で食べる物や着るものが作れなくなってしまう。その責任の一端は商社マンであった自分にもあると思い、この会社を経営しております。せめて孫が大きくなったときに、洋服だけは自分たちで作れるような国であって欲しいと思っています。そのためにも、他の工場との横の繋がり、仲間意識を持って、お互いに助け合える環境を作っていきたいですね。

仕事以外で挑戦していることや楽しみにしていること、趣味などについて教えてください。

やはり、洋服が好きなんでしょうね。いまも時間があると洋服の売り場を見て回っています。

あなたにとってフェニックスはどのような存在、場所でしょうか?

鴨居前社長から頂いたご縁ですので、大切にしていきたいと思っています。私たち以外にも地方の工場には、面白い機材やノウハウ、人材がまだまだ眠っていると思います。フェニックスさんは企画力が素晴らしい会社だと思うので、ぜひデザインや、提案力で洋服作りの新しい可能性を開き、我々のような生産背景を繋げていっていただけたら嬉しいです。